Imaginantia

思ったことを書きます

物語の供給と、個人の限られた時間

かっこいい名前をつけていますが、要は「ある期間に摂取できる物語の量に限りがある」という話です。

ある期間、というのは2時間とか、1年とか、1生とかいう話です。

世界に大量に良い物語、もといコンテンツがあることは経験及び周囲の人間の言動から明らかだとは思うんです。

でもそれを読むには何かを消費しなくてはいけなくて、「全てを識る」のは不可能に近いです。特に何かを創る人間にとっては。

その一つの解決として物語の抽象化、即ち「こういう関係性って良いよね」という話で理解を終わらせるというのがあります。が、これは抽象なので現実味が薄いのです。

物語の重さというのはその現実的ディティールから来るものが多いと思うので、やはり完全な形で「得る」ことが出来ないんですね。かなしいことです。

物語を圧縮して出来た粒を摂取したいと願ってしまいますね。美味しい金平糖は満足度が高いものです。


では創る側は何をしてるんでしょうね。

この救われない状況を、さらに救いの無い様子に持ち上げているような。

パンケーキを積み重ねてももうお腹いっぱいなのでは。

1年に1枚のパンケーキなら許されるんでしょうか。

できることなら、知らない味を食べてみたいなと。

…まぁ、見知った味がおいしいのはよくわかっているんですけどね。


何らかの「事実」に対して、それの持つ「意味」は遥かに情報量が多いものです。特に勝手に情報を抜き出してもいいので。

逆に言えば「事実」とは効率の良い圧縮方法です。ただ、実運用されている「事実」がそれほど小さくなっているかというとちょっと疑問で。

わたあめって美味しいけどどことなく虚しい感じがして。食べている間雲に逃げられているような。そして最後に結晶化した部分は食べられないし。

創ってる間は楽しいんですけどね。くるくるまわして。


シュークリームくらいが丁度いいんだと思います。シュークリーム食べたいですね。