Imaginantia

思ったことを書きます

文脈の無知、無知の文脈

人は気軽に無知を晒すことができます。もう少し言うと、無知に成れます。

他者との対話は一般に文脈の上で成り立っています。語る上で重なっていく文脈の中には「文脈の上に成り立つ文脈」が含まれていることが往々にして在ります。

その文脈を対話の中に配置するとき、同時に「依存しているはずの文脈に言及できないことを示す、又は相対する言動をする」ことは比較的容易です。これは「基礎を知らない人間が応用を語る」に近い話です。

もうちょっと具体的な例を出すと、「httpsはhttpよりも安全なんだよ、ところでこのsってなんだっけ」とかそういう感じです。

ここまであからさまではなくとも同様の「無知を示す言動」は世の中にいくらでもあります。別にそれ自体は咎められることでは無いと思います。ただ、自身の無自覚な中で行われる無知開示は、とても苦手なのです。私が。

ある文脈――作品、理論、慣習、表現――には必ずそれを成立させる為の文脈が被さっている。それを知らない者たちが、表を弄んでしまい、裏を知る者たちを黙らせる。黙るのは決して圧倒されたからではなく、それは冷笑の表現ではあるのですが、当事者はきっとそれを知らないのです。

例えば世界に実在する様々な媒体に記録されている文脈には、その媒体の文脈を巻き込んだ断片が埋め込まれていることが多々あります。文脈を読み取れる人間はそれを正しく理解し、情報を受け取ることができる。しかし、文脈を読み取れない人間は、そこに文脈の存在だけを読み取り、唯情報があるという情報だけを受け取る

つまり、おもしろい理由がわからないんだけどおもしろい、という状況になる。

もっと言うと面白がられている理由がわからないけど、面白いらしいから面白いことが正しいと思える。そんな姿はきっと滑稽に見えることでしょう。

 

それ自体は将来的な理解を得たときに初めて不幸になるのですが、それを即時的な不幸にする「ある可能性」がここには存在します。

文脈を読み取れない人間の言動を、それが文脈が読み取れないことから来るものであることを読み取れない人間が解釈してしまうこと。即ち「無知という文脈」に無知である者の存在です。

まどろっこしい言い方をやめると「元ネタを知らない人が元ネタしか知らない人に出会ってしまうこと」です。

この時、通信できる情報はありません。何故なら共通文脈は存在しないからです。でもだからこそ対等で、即ち互いが不幸に成るのです。かなしいね。


だから私は無文脈が好きなんだと思います。人を不幸にしたくないので。