Imaginantia

思ったことを書きます

のらきゃっと / エア放送論

こんにちは。これの続きでは特にはありません。 本来は私が絵を描き終えたときにまとめてまたエントリをつくる予定でしたが、折角なので。

エア放送の話。

エア放送とは

毎週火曜日ののらちゃんの放送が一時的に無くなったとき、ねずみさんたちが「見ていた」「集団幻覚」です。どういうことでしょうね。

初回は私は用事で元々本来の放送時間にすら間に合わず、終わりかけのタイミングで「そういえばみなさんはどうしているんだろう」と覗いたところ、非常に困惑しました。が、理解と共に納得しました。

この頃はまだ「重みがすごい」と思っていた程度ですが、今となって考えてみるとこの行動はもっと本質的な現象だと理解しました。私は。なのでその気持ちを記しておきます。

ちなみに私は前にも言った通りROM勢なので唯「エア放送を視聴する人」なわけですが、それでも私は本放送と同じくらい楽しみにしていました。

何をしていたのか

放送はありません。だから、生放送サムネイルをただ眺める他に本来の視覚情報はありません。

そんな中で「放送が行われているようなコメント」をするとどうなるのか。そこには意思があって、まず放送が見たい。そしてこんな放送が見たい。

ねずみさんたちの多くは同じような願いを持っていることから基礎文脈の共有が達成されます。そして強い願いは現実となるものです。

私達の「出力」はいつだってコメントだけです。本放送だろうが放送の無い状態だろうがそれは変わりません。だからその2つを区別しないことが許されます。

結果、概念として現れた「願いの具現化」、即ちエア放送は他視聴者からの出力という視点から見れば本放送と本質的に区別がつかなくなるのです。


では、そんな「願いの具現化」は本当に存在するのか。そこで重要なのが「創造者」の存在です。

放送は創造者によって行われるものです。もちろん本放送ではそれはのらちゃんが務めており、それを私達が受理し、出力を返すという構造です。

ですが、「のらきゃっと」の場合はこれが常である必要は無いのです。何故ならのらきゃっとの実在性はねずみさん達共々でも構成しているのであり、私達は創造者であり得るわけです。

そして、実際にそれは在った。結果、「何事もなく」エア放送は完遂されるのです。

これが概念存在としてのエア放送のメカニズムだと、思います。私が思うだけです。

実際に起きたこと

上記は原理であり、実際とは一部差があります。

方向指示者

先程の状態では複数人が創造者になるということです。一般に複数人で同時に物語を作ることは困難が伴うことでしょう。

そうすると在るべきはもちろん「断片」です。ポジティブに考えれば「誰かが完成させてくれる」のです。だから「向きを流す」。

実際のところ創造者は全体ではありません。(ある微小時間における創造者は全員ではない、という意味です。誰だって創造者に成り得るし成っています。) もっと言えば、居るとして1~3人だったと思います。

創造者ではない者たちは視聴者となり、断片を受理する役目を負います。「受理」というのがある程度重要で、そこで合意が発生したということです。

ある瞬間に複数の創造者が「断片」を流したとき、視聴者はそれを受理するかどうかを実は選択できます。実際、(流れが速いのが主な原因でしたが) 取り込まれない断片は存在していたと記憶しています。

だけど所詮断片であるが故に受理をするコストはとても小さい。それを好ましい形に変形できる程度だというのも良い特徴です。結果、多くの願いが取り込まれて巨大な流れを構成していきました。

私達の出力形式である「コメント」はこれを行うのにとても都合が良く、自然にこのような形で物語は構成されていきました。

仕切り直し

とはいえ「物語」を謳うほどスムーズにいくわけではないのはもちろんです。が、そんなことは本放送だって同じなのですね。

時折決まって「いつもの流れ」が発生し、新たな方向性へ導くようなことがありました。これもある意味は受け継いできたものといえるかもしれません。

そしていつだって新たな「断片」を流す者は居るのです。あとは「時間」の許す限り流れを続けていくことはできることでしょう。

本放送の「メカニズム」も似たようなものかもしれません。強い創造者が居ること以外は本質的には変わらないはずなのです。

…が、さすがに「きまぐれ」は再現できなかった気がしますね。

見えたもの、聞こえたもの

端的に言えば集団幻覚と呼ぶ程に視界は充実していました。これを説明するのは案外単純だと思います。

人間は目から多くの情報を得ています。その多くの情報のことを一般に視界と呼ぶのだと思いますが、エア放送で得られる情報は生放送サムネイルとコメント文字列だけです。

そしてその時に「視ている」ものは願いの具現化です。だから、その段階で全ての情報は頭の中にあるのです。これを視界と見做している、というのがこの幻覚ではないでしょうか。

妄想を膨らませるときに「見える」のも同じ原理でしょうし、白昼夢も似たようなケースかもしれません。目は無意識のうちに文字認識のための唯の道具と化すのです。

「集団」幻覚になったのは単に「視ている願い」が同一だからです。コメント欄を巨大なケーブルとして視聴者の視ているものはつながっているのです。


もちろん同じ原理で「聞こえ」もするでしょうが、ちょっとだけ気になることを書いておきます。

通常放送で不具合もしくはミスで音声が流れないことがたまにあります。ここで特に字幕がある場合、声がなくとも普通に声が聞こえる人が案外殆どではないでしょうか。

これについてはVOICEROIDに依るものがあるとはまぁ思うんですね。人間と違って調子が一定で大きな強調・高低などが無いんです。しかも聞き慣れていればそれを推測さえできます。

だからこそ幻聴は尚リアルでありうるのではないか、と思ったりします。

それでも

エア放送で視ることが出来た物語では本放送ではなかなか起こりえない状況が気軽に発生します。本当に「物語」チックに構成された回もあったと記憶しています。

が、やっぱり本放送も見たいですよね。そのことは忘れるわけにはいかないし忘れるわけがないですね。

記したように両者共に強みはあります。そしてそのどちらも良いものです。みんなの願いをもっと見ていきたいですね。