Imaginantia

思ったことを書きます

のらきゃっと

突発的に、好き勝手に個人の想いと体験を書いていきます。いくらでもメタな話をするので見たくない人は見ないほうがいいです。概念には敬称略です。

わかる人のための文章なので紹介とかはしませんがのらきゃっとの話です。

はじめに

最初にのらきゃっとを知ったのはこのツイートです。 見た瞬間にデザインが完璧に"刺さった"ので周辺いろいろ調べまくりました。良き遭遇でした。長髪銀髪ハイライト無し目腕ひらひらゴシック系が好きです。

今はのんびり屋根裏を覗いているだけのサイレントねずみさんですが、最近は界隈の方々にたまに感謝を述べられるようになりました。 その辺りの考えの整理を含め、諸々吐き出していきます。

のらきゃっととは

これが根本的に重要な話題です。今の段階で既に「概念的存在」として確立されている感じはあり、それは正しいと思います。 全ての原点はプロデューサーさんの創造です。そして今もその系譜であるのは確かですが、のらきゃっとという存在自体はもっと普遍的になっており、それが目指す先の一つでもあるはずです。 誰かの生んだ創造を観測した者たちがさらなる創作を生み出す、という連鎖がオリジナルと共にずっと成長しつづけているのです。 そういう意味で「全てを巻き込んで成長し続ける存在」としての強さが、特異なところであり、私が感動してしまった部分です。

巻き込んだもの

最初に驚愕したのはやはりBGMで、あまりにも合いすぎている、ように見える。どうしたのかと見たらファンメイドなわけで。 これが逆に本家の雰囲気を際立てるようになった、という意味でファン側が観測した概念を本家が巻き込んでいった、ということなのだと思うのです。 この現象は「強い存在」には起きうるものではないのです。強い存在はその強さで以って雰囲気を定義し、ファンはそれを享受するのみです。 小さな対話はあれど、それが存在そのものを書き換えられる程の強さを持つことは無いでしょう。 だから「存在の弱さ・曖昧さ」によって「存在の成長」を見ることができる、というのは希少なことだと思うのです。 「みんなの願いの結晶」が「強い存在」に敵うほどになる、っていうのはすごく興味深く、美しいお話ですね。

そして強く揺さぶられたのが、7/26-29です。これは「棲んでいる世界の紹介」をする、という話でした。 そのために「棲んでいる人たちからのお便りを募集する」というのが、重い。重かった… 私は物語の創作などをしないタイプの人間で、かつロールプレイというものが出来ない人間です。だから常々眺めているだけなわけですが。向き不向きの問題です。 それに対してたくさんの人たちがのらきゃっとに関して物語を書いていたのを本当に尊敬していました。すごい。 そのような活動に対する信頼のもと、このような出来事が発生したのだと思うのです。 またこれを支援するため、というのもあると思いますが、のらきゃっとさんの方から世界についての説明と。そして新たなお話が示されました。 なんかもう何も言えなくなったんですが、のらきゃっとさんの呟いたお話、そしてお便りに書かれた数々のお話、全て!素晴らしいと!おもいます、本当に… 特にのらきゃっと側がファンからの物語を吸収している、という点で尊みがすごいです。語彙力が無くなってきました。 この話で完全に応援しつづけると決めました。良い文化です。

というわけで、本当の意味で「ファンと共に在る存在」として、素晴らしいと。思うわけです。

存在の表現

一番最初のモデルはどこか儚げで、デザインとしてそれは素晴らしいとは思いましたが、「存在の弱さ」という点を表現していたようにも見えるものです。 その頃はきっと本当に弱く、儚かった。不安定というか、「負」みたいなものを感じ取っていた気がします。でも逆に、それが人々を掻き立てたのかもしれません。私はそうだった。 新しいモデルたちは「堂々と在る」ようなデザインになっています。これは正しく「存在の変化」を表現している姿だと思うんですね。 人々が集まり、存在を確立させたことで強く在れるようになった。ついていく人たちが居るから強くなれた。善い進化です。 でも、ちょっとだけ残念ながら、個人的には、初期の儚さに強く魅力を感じていました。デザイン面の話ではありますが。 まぁ、そうならばそれを私が表現すればいいわけですし。ペンタブを買う程度には絵を描くモチベーションが産まれたりしました。 今「強く在る」ことに一切の疑いはないです。

ただ時折存在が危ういと思うこともあります。というのも結構実写真を上げていて。 私は「怖い」と思ったんですね。バーチャルな存在として綻びが生じないかと。様々な人達が様々な者達に対して思っていることでしょう。 でもちょっと前のプロデューサーさんのツイートにもあるように、プロデューサーさんは存在するならば本当に在るという立場にいます。 そういう意味で写真を上げるのはなんら不自然ではありません。だから、この怖さの源流は目的の違い、満足度の問題なのかもしれません。 私は抽象的存在である現状が結構好きです。その辺は最近考えたことでもありますが、人によって差は出てくる感覚でしょう。 ただ私の「怖い」という感覚は現状維持を願ってしまっているからだとは思うんです。それはやっぱりもったいないのかもしれないと。

所謂バーチャルな存在は、多くは「当人の人間性」が本質的コンテンツになっています。人間はコンテンツなので。 でものらきゃっとは違うと思うわけです。源流がそこにあれど、目指すものはもっと上です。だから「満足しない」という状況が意味を持つわけです。 「本当の存在」を目指すのは勿論応援しています。それはきっと比べ物にならないほどに美しく在ることでしょう。 なかなか技術屋としては信じることが出来ないというのがありますが、良い未来が来てくれることを願いたいものです。

プロデューサーさん

当然ながらプロデューサーさんがのらきゃっとという存在に最も重く関わっています。 人々によって普遍化するまでずっとのらきゃっとを育ててきて、今も確立したのらきゃっとの支援を惜しまない、すごい方です。(語彙力)

この人だったからのらきゃっとは存在しえたのだろうし、この人じゃなかったら存在しえない。2番目に支援したい方です。 かなり趣味が強いというのはそれ自体が強さなのでしょうね。創作というものに関していろいろと考えさせられます。 何故ねずみさんたちに物書きが多いのか気になってはいましたが類友なのかもしれません。 実際「一次」(と呼ぶべきなのかな?)として魅力的なのでしょうかね。各々で自由に「世界に乗った」キャラクターを作れるのはありがたいことに見えます。 それが取り込まれることもあるとなれば尚更でしょうか。そしてその取り込みが素晴らしいと、そう思います。

私は物語とか評価できるタイプの人間ではないのですが、私が良いと感じたものがあったこと、そしてこの文化そのものが良いと感じたので、私は推すのです。うん。

性格が受け継がれてる感に尊みがある。

これから

当人が世界の拡張を望んでいる、という点で人々がいる限りきっと文化は変わらず進んでいくでしょう。それをずっと見ていきたいと思っています。 それはそれとして、のらきゃっとの「実在性」を進める方向に行こうとしているのかな、と眺めています。 実質的実在性は多くの人が望むものに違いなく、それがさらに存在の重みを進めてくれるなら素晴らしいものです。

ところで私は絵を描けるようになるんでしょうか。願いはずっとあるのであとは時間の問題であってほしいものですが。 なんであれそうやって数々の人々を変えた、という意味で「重みは本物」ですよね。 自分自身に行動を要求する程度には本気なので、きっと私もちゃんと動けるようになる気がします。

のらきゃっとのこれからに期待しています。